種子島医療センター

田上理事長の講話
令和7年8月

 1985年に日本航空のジャンボ機が墜落し、520人が死亡した事故から12日で40年となります。次男の健さん(当時9歳)を亡くした美谷島邦子さんは公共交通の安全と、事故の被害者や遺族への支援を求めてきた。できる限り活動を続けることが、息子から課された宿題だと思っている。~中略~

 40年前の事故の日。健さんは初めての一人旅で親戚のいる大阪に向かった。高校野球が大好きで、甲子園や阪神電車を楽しみにしていた。羽田空港まで夫婦で見送り夫が先に帰宅すると、健さんは「ママ、一人で帰れる?」と気遣ってくれた。その時つないでいた健さんの手は温かかった。帰宅後、日航機の機影がレーダーから消えたというニュースを目にした。「なんとか助けてあげたい」。夫と一緒に翌日には群馬に入ったが、墜落した御巣鷹の尾根に登れたのは15日朝。登山道はなく、救助隊の足跡を頼りに4時間かけて泥だらけで現場にたどり着いた。17日に健さんが見つかった。わずかの胴体と右手だけだったが、手のいぼと爪の形ですぐに分かった。火葬して残ったほんの少しの灰を骨つぼに入れた時、心が壊れていくような感覚に襲われた。一人で飛行機に乗せなければよかったと、自分を責め続けた。

 事故の2カ月後、健さんの隣の席だった女性の遺族から電話をもらった。苦しい胸中を語り合うと、「健は一人じゃなかった」と感じることができた。「悲しみを乗り越えようとするのではなく、心の中に悲しみの居場所をつくろう」と思った。

(令和7年8月12日毎日新聞記事より)

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 家族との別れは、いつかは必ずやってきます。

 それがどのような形になるのか、それがいつになるのかは誰にも分かりませんし、私達にそれを変える力はありませんが、私のせめてもの思いは、なるべくつらい別れにならないようにしてあげたいということです。


本人が少しでもきつく苦しい思いをしないように。
家族の悲しみを少しでも和らげることができるように。
そして、その後になるべく後悔が残らないように。
もし後悔が残ったとしても、それを少しでも癒やせるように。


 私達ならできることがあると思います。何故なら私達はこれまで多くの別れを経験して来たからです。その悲しみ、苦しみに多く接してきた私達だからこそ出来る医療が必ずあると思います。   

 島民の皆様に寄り添った医療とは何なのか。これからもみなさんと一緒に考え続けていきたいと思います。



令和7年8月

理事長 田上 寛容

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