種子島医療センター

認定作業療法士インタビュー「人生を豊かにしてくれる、この仕事に魅せられて」<後編>

「種子島の大変さ」は、「種子島でしか得られない喜び」に変わる。

 

大阪府出身の酒井宣政さんは、種子島医療センターに作業療法士として入職してから21年。現在はリハビリテーション室の室長としてチームを率い、認定作業療法士として種子島医療の発展に力を注いでいます。「作業療法士という仕事は、患者さんの幸せだけでなく、自分自身も幸せにしてくれる。人生を豊かにしてくれた」と語る酒井さん。インタビューの後編では、作業療法士を志したきっかけ、大阪を離れて種子島で働き、暮らすようになった理由、そしてその魅力について伺いました。

 

 

—— 作業療法士という仕事に深い誇りを持っていらっしゃる酒井さんですが、この道を志されたきっかけを教えてください。

実は、作業療法士になったのは遅いんです。24歳で専門学校に通い始めるまで、その職業の存在すら知りませんでした。

 

高校に進学したものの、学校生活にワクワクできず、マンネリした毎日が退屈で——気づけば音楽にのめり込み、バンド活動に夢中になっていました。結局、3年で卒業できずに中退。アルバイトで生活を支えていましたが、どれも長続きしなかったんです。

 

バンドもなかなか芽が出ず、将来に不安を感じていたときに出会ったのが『ドルフィンセラピー』という一冊。その本をきっかけに、初めて作業療法士という仕事を知りました。

 

—— 今の酒井さんからは想像がつきませんね。ドルフィンセラピーとはどんな療法ですか。

イルカと触れ合うことで、精神疾患や障がいのある方の心身機能の回復や、子どもの発達を支援する療法です。

 

作業療法士は、その関わりを通して子どもたちの変化を評価します。発達障がいの子どもたちが少しずつ成長していく姿に心を奪われ、「この仕事をやってみたい」と強く感じて、通信制の高等学校にすぐに入学しました。

 

そして卒業後、リハビリの専門学校を探して、作業療法士養成コースに申し込んだんです。27歳で卒業し、恩師の勧めでそのまま専門学校の教員として勤めることになったんです。

 

—— どんなアルバイトも続かなかったのに、なぜ作業療法士には夢中になれたのでしょう。

学ぶうちに、理学療法が“医学から生まれた”のに対し、作業療法は“患者会から生まれた”と知り、そこに強く惹かれました。

 

作業療法はどちらかといえば哲学や現象学に近く、病気を抱えたジョージ・バートンと言う建築家が「いろんな作業をしていると調子がいいよね」という気づきから始まったそうです。その成り立ちに興味が尽きませんでした。

 

そして何より、人と関わることが好きだったんだと思います。怒ったり笑ったり、心を交わしながら寄り添う——そんな関わりの中で、人の役に立てているという実感を持てる仕事。それが作業療法士でした。

 

 

—— では、なぜ種子島で働こうと思われたのですか。

ドルフィンセラピーをきっかけにサーフィンを始めてから、すっかり夢中になりまして(笑)。休日は波を求めて全国のサーフスポットを巡っていたんです。そんな中、サーフィン仲間の作業療法士たちと種子島を訪れました。

 

その旅の途中、西之表市から南種子町へ向かう道で、PCW(Posture Control Walker)を使いながら笑顔で歩く小学生の女の子の姿を見かけたんです。友達と並んで笑い合うその光景に、「ここでは障がいのある子どもも自然の中で当たり前に生きている」と感じました。

 

その瞬間、「なんてあたたかい島なんだろう」「この場所で作業療法士として働いてみたい」と、心の底から思いました。

 

—— 思いを実現する行動力がすごいですね。

当時は発達障がい分野のリハビリテーションを専門に教えていましたが、臨床経験がほとんどないまま教壇に立っていたので、自信を持てずにいました。「現場で働いてこそ、学生に本当のことを伝えられる」と感じ、病院で働く決意をしました。

 

しかも、サーフィンもできて作業療法もできる——理想的な場所が、この種子島でした。大阪に戻るなり、島の病院に片っ端から電話をかけ、最初に受け入れてくれたのが種子島医療センター。もう迷いはありませんでした。

 

—— なにが酒井さんを島に引き留めたのでしょうか。

一言でいうと、いろんなことを経験させてもらった、ということに尽きると思います。

入職当時、リハビリ体制はまだ整っておらず、先輩たちが次々に辞めてしまい、導いてくれる人がいない状態でした。マニュアルも正解もなく、とにかくやるしかなかった。

 

理学療法士の早川さん(現リハビリテーション部長)たちと、「患者さんにとって“良いリハビリテーション”ってなんだろう」と考えながら一緒に勉強会や研修に通い、学んだことを整理して、自分たちで仕組みを作っていきました。

 

 

—— 前例のない状況で、簡単ではなかったですよね。

確かに、手探りで“この病院らしいリハビリ”を形にしていくのは簡単なことではありませんでした。

 

島の外へ研修に行くにも時間や費用がかかるため、研修先で出会った先生にお願いして島に来てもらい、講師を務めていただくなど、島にいながら学べる環境づくりにも取り組み、できることは何でもやりました。大変でしたけど、決められたことをただこなすよりも、試行錯誤しながら課題を乗り越えていく方が、自分には合っていたと思います。

 

もうひとつ、大きな出来事がありました。入職2年目に母が亡くなったんです。入退院を繰り返していた母を看病するため大阪に戻りましたが、わずか3日後でした。「自分が辞めて帰ったら、母が気にするんじゃないか」そんな思いもあり、「何かを成し遂げた」と思えるまでは帰れないという気持ちもありました。

 

当院に入職したのが2004年。あのとき「3年くらい働けたらいいな」と思っていたのに、気づけば21年が経っていました。

 

 

—— そして2022年、鹿児島県作業療法学会を種子島で開催されましたね。

あの時、感動をくれた女の子のように「障がいを忘れて、しあわせに生きられる島にしたい」という思いをずっと胸に抱いてきました。同時に、自分たちが苦労してきた分、後輩たちにはより良い環境の中で、一流の療法士として成長してもらいたい。その思いで、教育環境づくりにも取り組んできました。

 

ただ、以前は研修会に参加するにも時間と費用がかかり大変でした。そんな中、鹿児島県作業療法士協会

が離島会員の負担を減らすため、コロナ禍以前の2018年からオンライン研修のシステム作りを開始し、私も参加させて頂きました。運営を任された頃は失敗の連続だったものの、終えたときの達成感は格別でした。そうした貢献を評価していただき、学会の開催地に選ばれたんです。

 

—— 種子島での開催は初めてのうえ、コロナ禍ということでご苦労も多かったと思いますが、オンライン参加を含めて709名と大盛況でした。

最初は「本当にできるのか」と不安でしたが、髙尾病院長、下江感染管理認定看護師、早川部長に背中を押していただきました。

 

講演の依頼をはじめ、鹿児島県作業療法士協会の学術部や種子島の作業療法士との会議は毎日のように続き、オンライン配信のテストでは何度も試行錯誤を繰り返しました。感染対策や業務の変更など、次々に問題が出てきて……正直「やりきれるのかな」と不安になることもありましたが、職員や島の療法士仲間の支えで乗り越えられました。

 

 

—— 作業療法士の向上のために走り続けてきたことが、実を結びましたね。

本当に、仲間たちのおかげです。特に、長年共に作業療法士として頑張ってきた、現在田上診療所で事務長を務める濱添さんの存在は大きな支えでした。

 

「自分は仲間に恵まれているなぁ」と改めて感じましたし、「種子島だからこそ実現できた特別な学会だったんだ」と強く思いました。

 

これまでずっとそうでしたが、ステップアップしたいとか、自分が何をしたいというんじゃなくて、やるべき課題が生まれ、ひとつひとつ一所懸命やってきただけなんです。僕は特別“できる人”ではありません。だからこそ、いつも誰かが心配して助けてくれた。そのおかげでまた一歩進めたし、できることが増えていった気がします。

 

—— 作業療法士として、そして種子島で生きることが、酒井さんの人生を豊かにしたんですね。

学生のころは何をしても続かなかったのに、21年続けることができました。これは自分の力ではなく、“続けさせてもらった”時間だと思っています。作業療法士の仕事にも、種子島という場所にも、「人としての豊かさを育ててくれる」力があるんでしょうね。

 

—— 今の暮らしはいかがですか。

忙しいながらも、今まで我慢や犠牲を強いられていると感じたことは一度もありません。仕事は楽しく、病院にはサーフィン仲間も多い。波が良ければ朝サーフィンをしてから出勤、そんな日もありました。

 

12年前に種子島の女性と結婚し、今は家族中心の暮らしです。子どもたちとキャッチボールをしたり、バーベキューやキャンプをしたり。Wi-Fi完備のキャンプ場など、自然の中で遊べる環境が整っていて、家族で過ごすにも最高の島です。

 

今改めて思うのは、私がいろいろなことに挑戦し続けてこられたのは、妻の支えがあったからこそです。

妻や子どもたちに頑張る姿を見せたくて、そして応援してもらいたくて、ここまで前に進んでこられたのだと思います。

 

—— 種子島で働く魅力は何でしょう。

島の方々は本当に温かく、患者さんとの距離もとても近いんです。作業療法士として心を通わせながら関わることができ、つらい状況の中でも笑顔がこぼれたり、逆にこちらが励まされたりすることもあります。

 

また、患者さんの抱える問題を、自分や家族のことのように感じながら丁寧に向き合っていくうちに、不思議と自分自身の再生にもつながっていくように思います。

 

特に種子島では、そのことがより実感しやすくて、「これまでのすべての経験が、今の自分を形づくってくれている」と感じるし、「種子島だから大変」なことは、「種子島だから得られる喜びや楽しさ」につながる可能性があると実感しています。

 

—— まさに、職員として日々実感されている言葉ですね。では最後に、これから種子島で働こうと考えている方へ、メッセージをお願いします。

島では気軽に対面研修に行けない分、オンライン研修のありがたみを強く感じます。限られた機会だからこそ、学びや人とのつながりをより大切にできる環境です。

 

そして「種子島医療センター」という名前は、一度で覚えてもらえます(笑)。キャリアアップは自分事ではありますが、人とのつながりの中で育っていくものと私は感じています。同じ志を持つ仲間が増えていくのは、何といっても最高です。

 

—— 心に響くお話をありがとうございました。

 

インタビュー前編はこちら