私たちは目に見えるもの、いや見えるものこそを信じたいと思っていないだろうか。高次機能障害の人たちの苦しい思いを推し量ることは出来るが、体験することはまず不可能に近い。本院の理学療法士、作業療法士そして言語聴覚療法士が懸命にリハビリを行なっている多くの高次機能障害者がどのような思いでリハビリを受入れているのだろうか。
最近、一冊の本を読む機会があった。これまで家出少女や貧困層の売春、若者の詐欺などセンセーショナルな取材で一世を風靡したルポライター鈴木大介氏の体験記である。彼は41歳の夏、脳梗塞で倒れた。その深刻なのに笑える闘病ドキュメント「脳が壊れた」からリハビリ医療に託されたものを紹介したい。
著者が脳梗塞に気づいたキッカケは指の麻痺と構音(呂律)障害。また、認識していた後遺症は、指が動かないこと、話せないこと、左側の世界を見られず(反側空間無視)、右の視野に注目してしまうこと(注意欠陥、分散不全)だった。
脳梗塞からの生還の日々を要約すると次のようであった。
いわば、脳が“故障”し、認知機能に障害が起きている状態から数日たつと、後遺症を持ちながら生きていかなければならないと、焦りが出てくる。さまざまな障害が症状とともに現れた。新しい出来事が覚えられない記憶障害、ぼんやりして2つのことが同時にできない注意障害、計画したことが実行できない遂行機能障害……。その後、退院できたが左半身に麻痺があった。ただ、懸命なリハビリで回復していく。「身体機能が回復したので、脳もどんどん回復していくだろうと思っていた」。認知機能のテストは高得点。でも日常生活が送れない。例えば、車のスピードが速く感じる。右から来る車は過剰な注意で目が離せず、ワープしているように見え、横断歩道すら渡れない。
この体験ドキュメントでの大切な一節がある。
ーそれまで当たり前のように出来ていたことが出来なくなるというのは、絶望的な経験ではあるものの、それを凌ぐほどにリハビリ医療は感動の嵐であることを体験したのであるー
そこに著者はリハビリ医療のポテンシャルを見いだしたのである。
すなわち、失った機能とは、失った日常に他ならない。高齢者にとって脳卒中などで心身の機能を失うことは諦観につながる。もう日常は戻ってこない。生きていてもいい事がない。けれども、リハビリ医療はそんな諦観や失望から人を救い出し、もう一度生きる勇気をくれる医療だ。一方、著者がルポライターとして関心を示す子どもの発達は環境因子によって大きくバラツキが出る。ならば、不登校児童に、保健室通学児童に、虐待やネグレクト環境下で発達の遅れてしまった子どもに、リハビリスタッフの専門性はとてつもないポテンシャルを秘めているのではないかと問いかける。
日常の不自由においては、やはり作業がうまくやれないこと以上に、「やれないことを他者に分かってもらえない」という経験が、何より辛かったと回顧している。認知の問題や注意欠陥といった高次機能障害は、本人にとっても周囲にとっても、「できなくなっている」ことそのものに気づきづらく、その理由が分かりづらく、それだけに何が有効なリハビリになるのかも、また分かりづらいのだ。構音障害は最も苦しい見えづらい障害の一つだ。この著者の体験では、言語聴覚療法士(ST)の効果的なリハビリで一定の回復が得られた。が、話しづらさの原因の一つに「感情失禁」があることに気づいた。感情と言語が暴走し号泣してしまうのだ。
高次機能障害者の多くは、この不自由感やつらさを言葉にすることが出来ず、自分の中に封じ込めてただただ我慢しているのかもしれない。結果、人とのコミュニケーションを最小限にする。または苛立ちをそのまま暴力に繋げたり、ヒステリックに自己主張をすることに逃げてしまう。そして、孤立していく。
本書では、妻の献身的な支えと適切なリハビリ医療そして応援団(縁あって繋がっている人たち)の存在が、独りでは生きていけない高次機能障害者の著者を救ったのだ。その著者が私たちへ希望することは、私たちが高次機能障害者へ手を差し延べるとき、「大丈夫?」を聞かないで欲しい。聞かれると「大丈夫・・・」と答えるだろう。その人がして欲しいだろうことを黙ってやってあげてほしい。
私たちの周りの高次機能障害者は次第に増えていく。私たちはこの現実を真正面から受け止めよう。「自立し、作業し、会話する」。この日常を取り戻すため、リハビリテーション医療の未来には大きな期待が寄せられている。
病院長 髙尾 尊身