すべての人々が年齢はもとより趣味も思想も異なるのにみんなマスクをしている。すべての人々が同じ生活パターンを強いられたことは過去に例を見ない。私たちは不思議な世界に迷い込んだかのようだ。「当たり前」が当たり前ではない世界へ。
コロナ前の私たちを考えてみよう。意外にも「自己本位」ではなかっただろうか。しかし、コロナ禍では「自己本位」では生きづらいことに気付き、薄れていた人との連帯感が蘇り、人とともに生きることの大切さを改めて考えた人々は少なくないだろう。
また、コロナ禍さらにウクライナ情勢は多くの人々のしあわせを打ち砕いた。そして、私たちはようやく「当たり前のこと」に気付いたのだ。コロナ前から目の前にあった日常そのものが、しあわせの条件だったことに。
私たちは当たり前のことを毎日積み重ねている。もちろん、それが大事だからである。
コロナ禍では入院患者への面会は原則禁止となり、看護において患者の気持ちに寄り添うことがより以上に必要なのだが、人手不足による忙しさで思うような精神的ケアは元より当たり前の看護や介護の質が低下したかも知れない。何か新しい工夫や知恵はないだろうか。
高齢の入院患者さんにはより注意して対応している。が、転倒の数が相変わらず多いのはなぜだろう。様々な転倒防止策を講じてもその数は少なくならない。転倒はどうして起こっているのか。多くはベッド柵をよじ登り、結果、転げ落ちているようだ。高齢者がベッド柵をよじ登る状況とは、患者自身に不安やせん妄があるのではないか。ベッド柵に囲われることが精神状態に悪影響を及ぼしているのではないだろうか。
CTなどの造影撮影では造影剤注入部位の漏れが一定数起こっている。かなりの注意を払って穿刺針外筒が血管内にあることを確認しているにもかかわらずだ。注入圧によるのか、血管壁の脆さによるのか、年齢に依存しているのか。
「当たり前」の中に「思い込み」はないだろうか。
コロナと共存の秋、「当たり前のこと」をもう一度考えてみよう。
病院長 髙尾 尊身