8月朝礼講話―鉄砲祭り―

 

お早うございます。
夏が本格化してきた種子島ですが、種子島といえば、鉄砲伝来の地として教科書で習いましたよね。県外からの職員も多数いますので、夏恒例の「鉄砲祭り」についてちょっと勉強してみたいと思います。「鉄砲祭り」と名のつく祭りは種子島の専売特許ではなく、秩父地方や宮城県でも結構昔から行なわれている様です。当時はそれだけ鉄砲のインパクトが強かったと言うことでしょうか。

 

多くの歴史家の検証によれば1543年8月25日、まだ 織田信長 や 徳川家康 が幼い子供で、斉藤道三 が美濃の国を奪取したばかりの言わば戦国時代の黎明期の頃、九州の南の島 「種子島」にある門倉岬に、嵐によって1隻の船が漂着します。この日は日本の歴史にとって重要な転換点となりました。

 

種子島時尭の偉業は、鍛冶の八板金兵衛に複製を命じ国産第一号の火縄銃を完成させたことでしょう。歴史を変える出来事には何かエピソードが付きものです。鉄砲の複製にあたり、八板金兵衛が一番困ったことは何か?以外にもネジだったのですね。当時の日本にはネジの発想が無かったようです。その作製法を教えてもらうために若狭姫をポルトガル人に差し出したとされています。そして、第1号が完成するわけです。

 

種子島時尭と八板金兵衛の出会いも不思議です。八板金兵衛は岐阜の関出身で名の知れた刀鍛冶でした。しかし、トラブルに巻き込まれ島流しの刑を受け、種子島にたどり着いたのです。時尭が八板金兵衛の技術を高く評価していたことは確かですが、どのような出会いだったのかは不明です。推測の域を出ませんが、娘の若狭姫が美人だったことも一因かも知れません。なにせ時尭は思春期真っ只中、今の高校生の年齢でしたから。

 

二挺の鉄砲が種子島に伝来してから約30年のうちに驚くべき速度で普及したのは,日本の鈑金技術がきわめて優れていたことを示すもので,世界的にもこのような例は無いと言うことです。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧、津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられたとされています。

 

鉄砲伝来が日本に与えた重要なポイントは三つあります。 まず第1に,この世には人種の全く異なる西欧の国々が存在するという、世界地理に対する認識。第2に,その西欧の国は全く異なる文化を持っているという発見。そして第3には、西欧の科学技術水準の高さが与えた衝撃。しかしながら、直ちに鉄砲製作の技術を会得したのは,日本の技術もまた高水準にあったことを示しています。特に今日の機械器具に欠かすことができないネジの作用を初めて知り作製したことは,我が国の科学技術史上重要な出来事であったと多くの歴史家が述べています。

 

あまり知られていない事実ですが、実は鉄砲本体よりも「弾(火薬)」 の方が難題でした。日本では火薬の材料となる 「硝石」 が当時取れなかったので、外国との貿易に頼るしかありませんでした。これについては大変興味深い話があるのですが、相当の紙面が必要となるので割愛します。いずれにしても、鉄砲伝来の日から約30年後の長篠の戦い(1575年6月29日)ではすでに鉄砲は大量生産され、かつ近代兵器として実戦に用いられたのです。1万数千の武田の大軍に対し、長篠城の守備隊は500人の寡兵でしたが、太田牛一の『信長公記』では、決戦に使用された鉄砲数に関しては「千挺計」(約1,000丁)と記されています。

 

我が国での鉄砲の歴史が始まったこの小さな島に最先端の科学技術を結集した宇宙センターがあることは、偶然なのでしょうが、不思議な縁を感じるのは私だけではないはずです。皆さんに再認識して頂きたいのは、種子島が今なお我が国で色々な意味で重要な島だということです。この悠久の歴史と、現代をリードする科学の島で働くことに誇りを持って頂きたい。鉄砲が機能するには弾が必要な様に、建物や医療機器があっても病院ではありません。それらを生かせる技術すなわち人材があってこそ医療が成立するのです。

 

今月の鉄砲祭りの前夜、岐阜の方々による矢板金兵衛と若狭姫の逸話がオペラとして種子島で上演されます。種子島医療センターは協賛させて頂いています。職員の皆様には、種子島の歴史を知る上で是非観て頂きたいと思います。翌日、歴史に思いを馳せて踊る「鉄砲祭り」は格別かも知れません。

 

髙尾 尊身